川崎医療短期大学 創立50周年記念誌
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20 1988(昭和63)年に臨床工学技士国家資格制度が誕生し、この年に全国で14の養成校が認可されました。川崎医療短期大学医用電子技術科(定員50人、後に臨床工学科に改称)は唯一の短期大学(他は専門学校)で、注目を集めました。 臨床工学技士養成の指定規則はあるものの、実際の教育については例がほとんどなく、手探り状態での教育が始まることになりました。学科主任の梶谷文彦教授の指揮の下で試行錯誤の繰り返しでしたが、とにかく良い教育を行うことを目指しました。嬉しいことにフロンティアとして十分な素質を持った1期生が入学してくれました。 今は懐かしく思いますが、学科創設当時には、スムーズに受け入れられる学生教育ができるのか、臨床工学技士のニーズ(就職)がどの程度あるのか、臨床工学技士の実務的な職務内容にはどのようなものがあるのか、国家試験に全員合格できるのか、などなど大変な課題が山積していました。 学生教育は医学、工学、医用工学の分野で行われますが、とりわけ学生にとって苦手分野は数学、物理学を基礎とする工学の分野で、特に文系出身の学生にとっては並大抵のことではなかったと思われますが、全員強い意志で頑張り乗り越えてくれました。 本学科の卒業生は全員臨床工学技士としての仕事に就くことになり、大半は病院に就職し、何人かは医用工学関連の企業に就職することになります。臨床工学技士の業務指針では、「医師の指示の下で生命維持管理装置の操作及び保守点検を行うことを業務とする」となっています。しかし、就職先を開拓するために岡山はもとより大阪、東京などの病院や企業に出向いたり、電話でお願いしたりしましたが、先方との話の中で、「臨床工学技士は何ですか?」、「どんな仕事をするのですか?」など面食らうような質問があって、いかに臨床工学技士が社会に浸透していないかを実感しました。このような現実を受け入れながら、なんとか求人を頂き、全員の就職が叶いました。ところが、ほとんどの就職先では臨床工学技士の所属部署は定まっておらず、いくつかの病院では看護部の管理下にあることもありました。このような状況で、必ずしも本来の業務に携わることが期待できなかった卒業生もいましたが、それでもよく頑張り通してくれたと思います。 更に、1期生にとって苛酷な状況が最後に待っていました。それは国家試験の受験のことでした。臨床工学技士の国家資格制度は生まれたばかりであったため、国家試験の実施日は過渡的で、試験は卒業後の6月に実施されることになりました。1期生は既に全国の病院や医用工学関連企業に勤務しているため、受験勉強は仕事の合間に自分で時間を作り、自分一人で勉強するしかなく、受験までの3か月間は孤独との闘いであったと思います。合格発表の日、大学にファックスが届きました。全員の合格を確認し、教員一同感激に浸りました。 1期生が作り上げた伝統は今も引き継がれ、臨床工学技士教育の礎になっているといっても過言でないと思っています。元臨床工学科副主任軸屋 和明臨床工学科創設の思い出

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